視線の軸を変えるために

息子が 「藤子.F.不二雄先生は小学生の時にいじめられてたんだって。かわいそうだよね。」 と最近よく言うのです。
支援学校で「いじめは良くない」という授業があったのが影響しているとは思うのですが、このところ毎日そう言うのです。
息子自身はおかげさまでいじめに合ったことは無いのですが、いじめというものがどんなものなのか、その概念が多少入ったところで、F先生関連の本や雑誌、DVDにある「ぼくは子供の頃はいじめられっ子でした」という部分がとても気になったのかもしれません。


息子のお気に入りのDVDです。



それで。
 最初のうちは「そうだねぇ。いじめは良くないね。F先生もかわいそうだったね。」と息子に返事していたのですが、
「F先生はいじめられっ子だったから、ずっと空想の世界に居たんだって。すごいねぇ。」という息子の言葉に、あれ?となりました。
その話は私も知っていたのですが、ふいにそこが引っ掛かったのでした。

もしもF先生がひ弱ないじめられっ子じゃなかったら、空想の世界で遊ぶこともなくて、ドラえもんが生まれることも無かったかもしれない…… 
いじめは良くないことだけれども、ひ弱ないじめられっ子だったことはF先生にとってはギフトなんだよなぁ…… 
というか、ある意味では必要なことだったんだよなぁ……

と、思ったら、 私の健康面でのネガティブなアレコレも(今までで一番)お腹に近いところで受け入れられたような感覚になりました。



いじめは無い方がいいし、
身体は健康な方がいいし、
世界は平和な方がいいし、
そのための様々な努力だって絶対必要なのですけど、
個人の内面世界においては、ネガティブなことそのものの存在を悪とみなす視線・否定しかしない視線を持っている限り【そこ】から抜ける事ができないよなー…と思えたのです。
頭ではなくてお腹により近いところで。
(かと言って、たとえば争いを見ないことでネガティブな視線そのものを持たないようにする…というのも何か違う気がするのです。単純にジャッジしないことをヨシとするのも違う気がしますし。)


この日記で「私は自分のことを頭が悪いデキが悪いと思いがちだったけど、そんなことないかも。私は【普通】だっただけやん。」と書きましたけど、私の場合この【普通】というのが否定の視線から【真ん中】……といいますか【真正面】へ向けた視線へと向きを変えるポイントの1つになるのかもしれないです。
ただ真ん中に居るというのではなくて、視線の軸を90度変える、と。
とは言え、
まだ上手に【真正面】に向ききれてなくて、首を左右に振りながら善いか悪いか肯定か否定かの視線を投げかけまくってるのですが、前を真っ直ぐ向いて真正面を見る瞬間を何度も掴むしかないように感じます。

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