努力できるというのも才能か?
娘の夏休みの宿題(透明水彩絵の具で風景画を描く)の手伝いをしてたら、くまえるを水彩で描きたくなったので、20年ぶりくらいに水彩色鉛筆を使って描いてみました~。
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最近、お父ちゃんが
「努力できるというのも才能」
と時々言うのです。
お父ちゃんは知的障害者支援の仕事をしています。
なので、その言葉を聞いた時に「利用者さんをたくさん見ていてそう感じたのかな?」と思いました。
私も息子を通して様々な知的障害児に接していて、知的障害がとても重い子にとっては言葉のやりとりが難しいのも知っていますから、そういう意味で「努力できるというのも才能」と言っているのかな、と思ったのでした。
でも、どうやら違うようなのです。
仕事を通していろんな人と接していて、知的障害がある無しに関わらず「努力できるというのも才能」だと感じるようになったのだそうです。
誰でも何かの才能に恵まれてると思うのです。
それが勉強とかスポーツとか芸術とかで発揮されるような類のものなら分かりやすく、反対に日常生活の中で何気に発揮されるような類のものだと本人もそれが才能だとは気づき難いのでしょう…が、それでも何か恵まれている部分はあると思うのです。
そしてその才能を磨くためには「努力」が必要だというのは明らかですが、「努力」そのものを才能とは捉えないことが多いような気がします。
けれども、確かに同じ環境で育った兄弟でも「努力」という力を発揮できる割合が全然違うことをよく見かけます。
これは、生まれつき「努力できるというパワー」の量に差があるのか。
それとも、量的にはほとんど差は無くても、その力を発揮する機関の性能に差があるのか。
脳の機能差で、努力できるというパワーを生み出しやすい性質かそうでないか、もあるような気がします。
生まれつき胃腸が丈夫な人と弱い人がいるようなものかな、と思います。
(スピリチュアル的に言えば、「前世で獲得した善い資質」なのでしょうね。)
でも、その力を発揮する機関の性能差は、生まれつきの問題だけではなくて、後天的な影響も小さくないのかもしれない…と思います。
例えば、うちの息子はダウン症で中程度の知的障害と認定されていて、確かにできないことも多いですが、頑張り屋なのです。
学校でとてもよく頑張って作業実習をしたり、運動や勉強をしています。
それは「立派な大人になりたい」という動機づけが彼自身によってなされているからです。
そして、その努力に対して周囲の大人はみんな褒めてくれます。
これは支援学校だけでなく息子が地域の小学校の支援級に通っていた時もそうでした。
知的障害というのは個人個人においてとても凸凹が激しくなりやすいため、おおよそにおいて
「できなくて当たり前なのに、これができるようになった」
という評価の連続になりやすいように思います。
「これくらいできて当たり前でしょ?何故できないの?」が非常に少ないのです。
でも、健常の我々の場合、子供の頃から「これくらいできて当たり前でしょ?何故できないの?」という見られ方をしていることが少なくない気がします。
そうなると、
「何故できないの?」→「どうしてしないの?」→「努力が足りないんじゃないの?」
と、なっていき、本人は「自分の努力不足だ」と思ったり、「自分は努力が出来ない人間なんだ」と思ってしまったり、様々な拗れ方で拗れる原因になるよなー……と、思ったりするのです。
私の場合は、家の中をキッチリ整えていたかった祖母に小さい頃から「(キッチリ片付けができないなんて)だらしない」としょっちゅう言われたために、自分はだらしないんだ、と思い込んでいました。
今でも掃除の手抜きをした時に「あー、おばあちゃんに叱られるわ~。」と思います。
私は自分をだらしないと思っているため、頑張らないとキチンとできない……という強迫観念がどこかに今も残っていて、「片付いてる方が心地良いから綺麗に片付ける」だけではないので、どこか中途半端なのです。
そしてその中途半端さに「私はだらしないから」が強化されて、余計に強迫観念が強くなり……で、不要なエネルギーを使ってます。
(友人が根気よく指摘し続けてくれたのて気づけたことでした。)
ちなみに、
かなり改善したのですが、私がその部分を持ち続けているのは、おそらくその強迫観念が無くなったら「だらしない自分」が全開になると思っているからなのでしょうけど、
それならばスピリチュアル的な手法で「自分はだらしない」を書き換えれば良いのに、それをしていないのは、それが自分のアイデンティティの一部になっていて「手放す」なんて発想が浮かばなかったんだなー……、と、これを書いてて気がつきました。
それはさておき、
ともかく、小さなことから大きなことまで何かにおいて個人差で「それは(未だ)できなくて当たり前」の状態なのに年齢や周囲との比較から「何故できないの?」という目で見られ続けたら、自分はダメだと思ったり過剰なまでに努力するようになったり……何か拗れる要因になりやすいのではないか、と思うのです。
丁度少し前に4.5Pさんの以下のツイートを読んで、こういうことって起こりがちだよなー、と思いました。
私にもできるんだからこれくらいできて当たり前…で、できない人に「何故やらないの?」という気持ちで接してしまうと、相手の「努力できる能力」が未熟な場合、追い詰めることになるケースもあるよな~…と思ったのです。自己肯定感低いので、— よんてんごP (@yontengoP) August 19, 2019
自分がしてることなんて大したこと無いよと思いがちなのだけど
裏を返すと「自分ができてることは他の人もできてるに違いない→できてて当然→何でこの人は俺ができることができないんだ」っていう、一転して途轍もない錯誤に陥るので気を付けないといけない
というわけで、
自分に対しても他人に対しても「できて当たり前というものは1つも無い」と思うくらいでも良いのかも……と、思ったりしたのでした。
その上で、「こうなりたい」という自分を見つけることができれば、努力をするという能力を上手く使えるようになる気がします。
(でも、その「こうなりたい」はフワっとしたものじゃなくて、お腹から思うものじゃないとアカンような気もするんで、それを見つけられる自分になるというのがまず大きな課題としてある気がしますがががが。)
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